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まりかの履歴書

 

なんて恥ずかしいタイトルでしょう笑

改めまして、このサイトを読んでくださってありがとうございます。

僭越ながらここでは私のヘンテコな経歴をご紹介します。

​よろしければお付き合いくださいませ!

 

漫画家デビュー

 

私の小さいころの夢は漫画家で、寝食トイレも忘れて授業中も漫画を描くオタクな子供でした。

 

14歳のときに小学館の週刊少女コミック(現在のSho-comi)に初投稿。

ドラマチックなサスペンスを描く漫画家に憧れていた中学2年生。

なのに、ギャグ部門だったら規定のページ数がわずか5ページだったので、これならすぐに描けるわ!と思い投稿したものが受賞してしまい、うっかりギャグ部門でデビュー。

思いがけずギャグ作家となってしまったものの、幼いころからの夢が早々に叶ってしまいました。

地元で学生生活を送りながら漫画を連載し、その後単行本を2冊出版しました。

 

 

ベリーダンスとの出会い

 

21歳のとき、東京の帝国ホテルで行われる小学館の年末パーティーに出席しました。

ホテルでのパーティー後、2次会は雑誌毎にお店を分かれて、延々豪華な宴が続きます。

当時はまだバブル全盛期で、まだ若く田舎者の私はそのゴージャスな空気にただ圧倒されました。

 

そして、その2次会のお店で初めてベリーダンスを見ました。

ダラブッカ(タイコ)とウード(弦楽器)の生演奏。

お腹を出した女性が美しく着飾り、自分の女性性の魅力を隠さず、信頼し、存分に謳歌する姿は、それはそれは衝撃的でした。

 

自分の妄想の中の女性美が、現実世界に存在していた・・・!

こんな踊りがあるなんて・・・私もこんな風になりたい!!と強い衝動が湧いてきました。

 

帰宅してからすぐに下関や北九州でベリーダンス教室を探しましたが、

まだ東京でも珍しいベリーダンス、地方で習えるところがあるはずもなく、気持ちだけが先走り途方に暮れました。

 

 

 

ベリーダンスへの渇望

 

幸い、この頃アメリカではすでにベリーダンスブームが始まっていたので、ネットで販売されているベリーダンスのCDやパフォーマンスDVD、教則DVDを買い漁り、独学で学び始めました。そのころに集めたビデオテープとDVDは200本以上。

この踊りへの貪欲な情熱を止められず、もどかしい思いのまま時が過ぎました。

 

そして3年後。

漫画家とOL生活を送っていた頃、北九州のカルチャーセンターにベリーダンスが新規開講したのを知り、喜び勇んで入会しました。

直接指導してもらえる有難みを感じ、人前で踊りを披露する機会もいただき、ますますベリーダンスに没頭していきました。

 

その後その先生は転居でいなくなり、他の先生を探してレッスンを受けていました。

そこで初めて知ったのは、ベリーダンスは自由な踊りなので共通した資格などはなく、例えば1年学んで「私先生になります」と教室を開けば先生になれてしまうもの。

どんな習い事でもそうだと思いますが、自分のスタンスに合った先生選びは大切だと感じました。

 

そしてベリーダンスにもいろんなスタイルがあるということも知りました。

なんて奥深い踊りなんだろう…。

私はもっともっと、本物のベリーダンスを学びたい!!

 

 

運命の出会い

 

そんな思いがますます強くなっていき、思いの行き場を探していたときに、

東京から博多にステキな先生が来たらしいよ、と噂を聞いてさっそくその方のステージを観に行きました。

 

ダイナミックで柔らかい動き、「女」を感じさせる佇まい、本能を感じる踊り。鳥肌が立ち、なんてカッコイイんだろう…。わたし、この人についていく!!

そう決めて、ステージが終わった直後にその方を捕まえて、来週から教室に通います!と宣言しました。

それがその後の師匠であるmomoi先生です。

 

その後7年間、福岡市天神のmomoiベリーダンススタジオ(通称モモスタ)に在籍し、スタジオ所属のショーダンサー・インストラクターとして多くのことを学びました。

ここでの経験が今の私の貴重な財産となっています。

(モモスタは現在、実力派ダンサーを多く育成する全国的に有名なベリーダンススタジオです)

 

2012年、同スタジオ初の卒業生として独立し、地元北九州、下関で「Malikaベリーダンススクールフルーム」として活動を始めました。

そして漫画家も同時に卒業し、2次元から3次元の世界へデビューしたのです(笑)

 

 

迷い

 

漫画家、ベリーダンサー・ベリーダンス講師という肩書を持ちながら、思い悩む時期もあります。

 

例えば医者や教師など、社会的に立派だと認められているものと相対し、

「それがなくても生きていける」というものを職業にしていることに対するうしろめたさというか、罪悪感。

 

人の役に立たないこと、いわゆる娯楽のカテゴリーである仕事にどう誇りを持ちつづければよいのか考えていました。

震災の時は自分の無力さに愕然とし、踊りに向き合う方向を必死に探しました。

 

 

ですが、そのときの被災地で、

なにもかもが失われてしまったとき、

求められたのが音楽や歌だったそうです。

 

一見、生きることとはなんの関係もないこと、

生きていくためになんの役にも立たないと思うことが、

どうしようもないときに、

生きる力になることもある。

 

そうだった、私もそれで

この踊りに救われているんだった。。。

それに気づいたとき、本当に本当に有難くて、泣けました。

 

 

私の夢

 

この神秘的で素晴らしい踊りは、すべての女性を輝かせる力があると思っています。

そして、命をかける価値があると思っています。

美しい音楽と踊りは、世界平和に繋がると思っています。

 

私の愛するこの素晴らしい世界を、それを味わう喜びを、これからみなさんと共有していきたいです。

その夢が少しずつ、叶いつつあるのを感じています。

 

 

 

 

 

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